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SYLVIE AU JAPON
TO: IN ENGLISH
シルヴィ・ヴァルタン来日!! - 1973年9月30日 東京羽田国際空港に到着。
4度目の日本公演の前日に日本入りし2週間巡演する。
シルヴィは、お気に入りのイヴ・サン・ローランのペンシル・ストライプのブラウス姿。
(写真撮影はシルヴィ・ファン Mr.Yoshihiko Nagamine)
日本へようこそ、 こんばんわ、シルヴィ!
シルヴィ!
シルヴィ・ヴァルタンの
一きわ目くるめくキャリア63年は
感慨深いの一言では足りない。その行路は奇跡的。
人は身体変容もし人生も不定だ。しかしシルヴィは1961年17歳で図らずも
歌手デビューし初舞台を踏む。20代前半に2度の自動車事故に遭遇するが幸運にも生き抜く。
1970年ニューヨーク滞在を契機に飛躍し非凡な心身の逞しさと不変の情熱を持って歌い踊り第一線で存在感を放つ。
コンスタントなレコード制作と公演と巡演。2021年に50作目のオリジナル新譜発表。2020年代もTV出演し歌う。家族生活を軸に
風を背に人生に沿ってシルヴィらしい生き方を貫く風だ。唯一無二の声や溶々たる歌い方に通じる。別次元のアーティスト人生のコアはシルヴィの人間性。
2018年「最後の」日本公演から約7年間もの活動を経て、2025年に63年間の現役に幕を引く。大掛かりなパリ最終公演は2024年11月、追加公演2025年1月。シルヴィは別格。
・シルヴィ・ヴァルタンの軌跡 - 63年間の奇跡!
・2008年東京公演 ・2005年東京公演 - TVインタヴュー
・2002年 "あなたのとりこ" リバイバル・ヒット
・1995年 ピエールとジル展覧会 - 銀座資生堂
・1995年フランス映画祭 ・1991年TV東京インタヴュー
・1970年代 日本公演 - ロング・ツアー黄金期
SYLVIE VARTAN HISTORY IN JAPAN
シルヴィ・ヴァルタンの軌跡 - 63年間の奇跡 !
1965年初来日から2018年日本公演-現在(2024,2025年パリ最終公演)
1965 : 新風ヴァルタン到着!
画像下 : シルヴィ・ヴァルタン(20歳)初来日 - 1965年5月7日の夜、東京羽田国際空港での記者会見
シルヴィ・ヴァルタンは、ビートルズ ( * ) より1年余り早く、1965年5月7日に初めて日本の地に降り立つ。ヴァカンス明けのシルヴィは、ソニア・リキエルのサマーニットにプリーツスカート。小麦色に日焼けしたほぼ素顔が印象的。報道陣や1000人ものファンが空港で大歓迎。フランスから遠い極東の国で、学生服姿の若者達が小さな旗を振って出迎えるその光景にシルヴィは驚いたと話す(1990年12月TV東京の取材ほか)。
5月8日から20日まで兄でジャズ音楽家・作曲家・指揮者のエディ・ヴァルタン ( ** ) を伴って全国ツアーを開催。5月8日付け朝日新聞朝刊 (空港での記者会見記事)によると、一行は公演前夜、5月7日の夜7時20分に羽田空港到着のフランス航空機で来日し、公演終了の翌日、5月21日に離陸。
シルヴィの衣装、白のパンツスーツは当時においては先進的。 翌1966年は髪はすでに肩を超える長さで、先駆者イヴ・サンローランのタキシード(最初の女性用)を一早く着こなしている。
120万枚を売り上げた「アイドルを探せ」 (原題:La plus belle pour aller danser - 日本発売:1964年11月/東京オリンピックの翌月)。 そのシングル盤の解説は、「ハスキーな低音」「天性の美貌と年齢に似ぬ魅惑的な声」。時空を超えて異彩を放つシルヴィの歌声。世界的に巻き起こった ヴァルタン旋風 は、その比類ない優れた容姿や優美な佇まいなど複数の要素が組み合わさることで生まれた現象。日本滞在は、公演(東京、名古屋、大阪、神戸、京都)の他にTV出演、レナウンTVCMの収録、メディアの取材、イベント(西武百貨店)出席など仕事満載。シルヴィはその合間に相撲部屋訪問や観光も楽しんだ。
身長168cmで華奢なシルヴィ。洋服の嗜好を当時の雑誌から見ると、リキエルのタイトなパステルカラーのニットを愛用しコートも含めてフィット感が大事と見える。一方、アメリカで買ったアディダスのスエード・スニーカー(赤のストライプ)とジーンズでリハーサル。京都観光では木登りも。1971年はクリーム色のホットパンツ&サファリー・シャツジャケット (YSLサファリー・ルック) に愛用のクリーム色のスリムなスムースレザーブーツで木の上で横になるなど、お転婆といった風だ。一眼レフカメラ (NIKON) 好きでもある。生来の淑やかさと活発さが目を引くシルヴィ。
朝日新聞の公演批評の「"よう精" にも似た魅力」と題した記事は興味深い。"愛らしい" といった平凡な単語は皆無。シルヴィは「舞台へとびだし」とか「清潔な退廃ムードといった奇妙な持ち味がある」「ロックの洗礼を受けた現代的な"よう精"」と評価。つまり、妖精なのだ。
初期の舞台にすでにコントラストのある多面的なステージ作りへの熱意が見える。数年後の1968年オランピア劇場公演から奥行きのある舞台構成と華麗で迫力あるステージを志向して邁進する多彩なアーティスト、シルヴィ・ヴァルタンがほの見える。
シルヴィはポピュラー音楽の黎明期1961年に "全くの偶然から" 歌手デビューするが、当時 (17歳) はモリエール、ラシーヌ、コルネイユの愛読家で俳優を志望していた。
シルヴィ・ヴァルタン日本公演(初来日 : 1965年5月7日から21日) -
主催 : サンケイスポーツ、フジテレビ
後援 : サンケイ新聞、文化放送、ニッポン放送、サンケイ会館
協賛 : 西武百貨店、エールフランス、日本ビクター
企画 : ゼネラル・アート・プロデュース
日本滞在の後は南米各国を巡演。ブエノスアイレス空港到着を待つ報道陣やファンから熱烈な歓迎を受ける。飛行機のタラップを軽やかに足早に降りるポニーテールのシルヴィ(プリーツ・スカートにジャケット姿)。空港の展望デッキで小躍りする観衆へ手を振って応える。その屈託ない素顔の笑顔が心を打つ。ヴァルタン1965年世界ツアーは大変な過密スケジュール。本ツアーからイギリス人のドラマー、トミー・ブラウンとギタリスト、ミック・ジョーンズ ( *** ) が参加し1970年代半ばまでシルヴィのブレーンの一人とし作曲でも活躍。
* ザ・ビートルズ (The Beatles) :
1964年、パリ・オランピア劇場で国際的新進スター、ザ・ビートルズ (20歳から23歳) 、シルヴィ・ヴァルタン(19歳)、トリ二・ロペス(26歳)が3週間共演 : 1964年1月16日から2月4日。ザ・ビートルズはフランスでは人気沸騰寸前とはいえ数日後、2月7日の彼等の初渡米(ケネディ空港到着)は歴史的な出来事。 2000年代のインタヴューでシルヴィは言う: ジョン・レノンは4人の中で一番陽気だった。私達は若く、夜には皆で踊りに行った。
** エディ・ヴァルタン (Eddie Vartan):
7歳年上のシルヴィの兄。エディ・ヴァルタン・オーケストラの指揮者。1964年11月日本発売のシングル・レコード「アイドルを探せ」(解説 三浦英和)によると「バックの冴えたストリングスが対照的に耳にのこりますが、これはシルヴィの兄、エディ・ヴァルタンの編曲指揮による演奏です。」
*** ミック・ジョーンズ (Michael Jones) :
シルヴィの兄エディが英国でスカウトしたミュージシャンの一人。彼はシルヴィと同い年。当初、一時的にシルヴィとジョニーの家に居候していた。1970年代半ばまで作曲でも活躍。1976年に世界的人気バンド、フォリナー (Foreigner)を結成。
左/ "アイドルを探せ" (1964年11月発売のシングルレコード/お気に入りのソニア・リキエルのニットを着たシルヴィ・ヴァルタン)
右/ "あなたのアイドル" (1965年5月8日からの日本初公演を記念して発売されたアルバム)
1970S : 1970年-キャリアの新しい章の幕開け!
画像下: シルヴィ・ヴァルタン (1969年後半、25歳 / 1970年2月の自動車事故前) (アルバム・ジャケット写真より)
1971年5月に2度目の来日。1965年5月の初来日から6年間の長い空白の後だが、再び大きな成功(連続ヒット: 悲しみの兵士/あなたのとりこ)を収めた直後の注目の日本公演。その年月はシルヴィにとって人生の明暗が集中的に交差した悲喜交錯な時期 :
1966年8月:長男誕生、1968年4月:自動車事故(無免許運転の車に激突され同乗の親友が死亡、シルヴィは左腕を骨折)、1970年2月:自動車事故に遭遇(シルヴィが助手席で顔面を負傷)、ニューヨーク長期滞在、7月父親の死、9月パリ公演。
シルヴィは、二度目の苦難を乗り越えられたのは心の糧である一人息子(3歳)の存在だったと言う。ニューヨークでの休養は多忙を極めるパリでは叶わなかった何かを学べる自由時間となる。キャリアの新展開を望んでいた頃の願ってもない余暇は不運の代償で得た自由だが、推進力のあるシルヴィ・ヴァルタンは帰するところ強運。ダンスを習う過程で新しいパリ公演を初めてシルヴィ自ら構想。周囲を説得して同年の秋に画期的なオランピア劇場公演を実現する。そうした稀に見る激動の歳月を経た待望の来日。 (数か国語を話すシルヴィ、英語は十代の頃アガサ・クリスティーをほぼ読破する中で習得したと言う。)
1970年初頭に発売されたヒット集アルバム「あなたのとりこ/悲しみの兵士」(RCA JAPAN)のライナーに、シルヴィ・ヴァルタンを象徴するような言葉が紹介されている:
「私は仕事の面でも一流のアーティストになりたいし、それと同じように1人の女性としても豊かな人生を送りたい」。
画像下:シルヴィ・ヴァルタン、1971年5月来日中の撮影。雑誌に掲載され又、翌年1972年の公演プログラムの表紙でもある。
26歳になり前髪も伸ばした長いブロンドが一層美しく神秘的。そのシルヴィは、デビューから数年後の1965年4月に20歳で結婚しその翌月に兄エディを伴なって初来日した6年前の一瞬と同じであろう筈がない。
人は変容し進展する、ましてや進取果敢な新進スター、シルヴィ・ヴァルタン。ボブの髪型は20歳まで。1965年終盤から髪を伸ばし始めて翌年には肩を超える長髪。1970年2月の事故から復帰後は長い前髪をまるで顔を隠すように横に流した髪型。シルヴィは服装も髪型も様々なスタイルを愉しむが、好きな洋服への愛着は強く大切に長年着るため、ヘアスタイルの変遷から時期が特定できる。
一方、日本のシルヴィのレコード・ジャケットは、RCA(日本ビクター)は、この1971年の来日まで頑なに一時期(1963/1965)の写真を多用。例えば、1970年秋発売の「あなたのとりこ」の解説に 《シルヴィも今年で26歳、早いものでもう10年のキャリアをもつ》 とあるが、ジャケットは依然として1964/1965年の20歳(ボブの髪型)のシルヴィだ。その上、1971年の来日中にシルヴィが日本語で録音した 「恋人時代」 のシングル盤の写真は更に若い19歳のシルヴィである。その来日中に撮影された優れた美しいシルヴィの写真を見るたびに不可解に思う。1970年代前半のアルバムにも時折1960年代終盤の写真を使用。RCAの真意は何か。長期的に何か功を奏しただろうか。
前述の通り、1970年はシルヴィ・ヴァルタンの人生の重要な節目だった。少なくとも、1970年の大ヒット2作品 ( * ) のジャケットが、(過去の1965年ではなく)1970年初頭や9月復帰後のリアルタイムで撮影された厳選したシルヴィの写真だったなら、1970年のキャリアの進展とその美しき実像は、1965年の「アイドルを探せ」と一線を画して、遥かに強烈に人々の脳裏に刻まれたのではないか。
(1970年2月の交通事故の負傷についても誇張や時期を含めた誤認識や混乱もなかったはず。半世紀経った現在も色褪せない2曲( * )だが、日本のネットに溢れるシルヴィ・ヴァルタンは1964/1965年の固定されたイメージで、その活躍は刹那的な印象。)
* 「悲しみの兵士」(Les Hommes qui n'ont plus rien a perdre) : フランスで1970年2月に2位、日本で1970年11月にオリコン総合11位。
「あなたのとりこ」(Irresistiblement): フランスで1968年12月に 2位、日本で1971年2月にオリコン総合18位。
シルヴィ・ヴァルタンは強運の人。1970年2月に世界中に衝撃を走らせた自動車事故に遭遇した一方でその年の大半をニューヨークに滞在する。当時の名黒人ダンサーから斬新なダンスを習得。自ら公演を構想し、彼と瑞々しい音楽(R&B) グループをステージに迎えて同年9月のオランピア劇場公演を成功させる。
( SYLVISSIMA 1970 (Youtube) - 本作はドキュメンタリー映画とし制作されたが結局TV放映された。) 奇しくも1970年後半、日本では「悲しみの兵士」(LES HOMMES...) と「あなたのとりこ」(IRRESISTIBLEMENT) が連続で大ヒット。
1976年にNHKの番組「世界のワンマンショウ」がシルヴィのフランスのTVショウを放映。1978年「ディスコ・クィーン」を含めて1970年代は多くのヒットに恵まれ、6度も来日し数週間から約1ヶ月間、全国津々浦々を巡演。1978年の3週間余りの興行の際、東京銀座中央通りの街灯に掲げられたフラッグ広告はヒョウ柄のボブ・マッキーを纏ったシルヴィ(1977年パリ公演ライヴ盤の写真)。
2015年にフランスで出版された LE STYLE VARTAN(モード写真集)に地方の駅ホームで列車を待つ素顔のヴァルタン一行の写真が掲載されている。スーツケースなど大荷物が長距離の旅を想像させる。この時代のハスキーヴォイスで歌う一見して粗削りなロックやその溶々たる歌い方は、シルヴィの大きな魅力の一つ。シルヴィ・ヴァルタンの日本での根強い人気は精力的に活動した1970年代を盤石にしていると言える。
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1980S : 1984年-人生(公私)の新たな章
1981年3月に東京音楽祭の審査委員とし来日。11月からの長期パリ公演(パレ・デ・スポール)の準備で多忙を極める中の承諾だったが、宿命的な縁か同席した米国のトニー・スコッティと3年後に再婚。(2024年2月のフランスTVで、シルヴィはトニー・スコッティ (出会い) を一言で miracle ミラクル と表現している)
1983年は記録的パリ・ロングランショウ(11週間ノンストップ)の数か月前に日本公演 ( * ) を数日間行う。TV音楽番組「夜のヒットスタジオ」(4月4日放送)に初出演。
1984年も秋のパリ公演前、プランタン銀座(4月27日オープン)に開設したダンス・スタジオやコカ・コーラ・ライトのTVCM出演などのイベントのため来日。 東京・大阪・京都にて公演し ( ** ) また、NHK音楽番組にも出演。
1987年に「あなたのとりこ」がTVCM(キャノン一眼レフカメラ、EOS 650)に使用されてリバイバル・ヒット。翌1988年に、アメリカで再録したビートの効いたロック調ヴァージョンがシングルCD発売に至る。カメラと言えば、行動的なシルヴィは十代後半から今も一眼レフカメラを愛用。撮影機器好きで撮影は趣味の一つ。
* 1983年公演(6月末/7月): 名古屋市民会館、大阪厚生年金会館、東京中野サンプラザホール(2公演)
** 1984年4月公演: ホテル・パシフィック東京、大阪フェスティバルホール、京都会館第一ホール、東京中野サンプラザホール (2公演)
写真左: 4月30日、中野サンプラザホール公演後、会場を去るシルヴィ・ヴァルタン (シックな装いと物静かな佇まい。クチナシの花の一際豪華なミニ・ブーケを手に)
シルヴィは、飽くなき公演活動の後、1985から1989年は新しい家庭と一人息子の大切な成長期を優先して公演活動は一時休止。パリ・ロングランや大規模な地方公演を含む見事な活躍後、主にアメリカで暮らしたその5年間は、フランスで大衆の大熱狂を少なからず冷ましたと見える。しかしシルヴィには人生に沿ったより良い大きな決断だった。シルヴィが20代の時の言葉通り:「私は仕事の面でも一流のアーティストになりたいし、それと同じように1人の女性としても豊かな人生を送りたい」。
シルヴィ・ヴァルタンの人物像について、その軌跡を俯瞰した時や複数の側近/マネジャーそしてトニー・スコッティの話を見聞きして心に残る事。それは: シルヴィは鮮明で明確な夢や願望を持っている。聴く耳を持つ一方で意志が強い。自立心がある。健全、公正で情が深い。謙虚。
左/1981年4月雑誌掲載写真 - 第10回東京音楽祭レポート
1981年3月27日(金)、東京音楽祭前夜祭に出席したシルヴィ・ヴァルタン。シルヴィは10周年を迎えた東京音楽祭の審査員として招待される。アメリカから招かれた審査員団の一人、トニー・スコッティ(スコッティ・ブラザース・レコード会長)と同席し、それは運命的な出会いとなる。豪華なゲストが多い音楽祭で、特別ゲストのスティーヴィー・ワンダーとペリーコモが歌を披露。3月29日(日)、最終審査に進出した15名の歌手が出演 (その模様はTBSテレビが夜7時から3時間放映)。シルヴィ・ヴァルタンはその後もプレゼンターとして招かれる。
1981年のその時期、シルヴィは多忙を極めていた。秋の大がかりなパリ公演(パレ・デ・スポールでの約6週間のロングラン公演)を控えていた為、審査員としての招待に少々躊躇したと言う。でも、出会いがあった。シルヴィはやはり強運。5歳年上のトニー・スコッティと3年後の1984年6月にカリフォルニアで再婚する。
(シルヴィは前年1980年11月にロック歌手のJ.アリディとの15年間の結婚生活に終止符を打っている。)
写真下: シルヴィ・ヴァルタン、1983年パリ公演 ( * 11週ロングラン ) の初日の夜、 マキシム・ド・パリでパーティー。
駐フランス日本国大使がシルヴィと握手。隣の紳士(左)はトニー・スコッティ。( * 1983/9/10 - 11/20 パレ・デ・コングレ・ド・パリ)
(新潮社の写真週刊誌 : FOCUS1983年10月)
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1990 : 人生(公私)の新たな転機-1990年ソフィア初公演
1990年9月末、テレビ東京の番組「MUSIC MY LOVE - 音楽マイ・ラブ - 世界のトーク&ミュージック」(1991年1月放映)がシルヴィ・ヴァルタンを取材(パリの邸宅でインタヴュー)。奇しくもシルヴィの10月ソフィア初公演の直前に行われた為、その感動を一寸語っている。番組終盤、長いキャリアは不断の努力の成果なのかと聞かれると:
「この仕事は弛まぬ "努力" ではない、好きだから続けている」。
(音楽とは一言で何かとの問いに)「 PASSION ! (情熱) 」。
1992 - 2014 : ステージ パーフ マンスに関して言えば、1990年以降のシルヴィ・ヴァルタン公演は記憶に刻印された出来事だ。1992年日本全国公演(6/19-7/2)、1999年6月の東京公演(ライヴハウス)、2005年3月と2008年3月渋谷オーチャードホール公演。それぞれ別な理由で感動した。
1995年は1月末から2月のカジノ・ド・パリ(アコースティック)公演が好評だったにも関わらず、6月に主演映画をもって「横浜フランス映画祭」の団長を務めて来日し、写真週刊誌AERA(No.54/12月4日号)の表紙を飾る(後述)。アコースティックのセルフ・カバーアルバム「セッション・アコースティック」は前年1994年に日本でも発売されている。(1993年夏のヒット曲/アカペラのライヴ・ヴァージョン、テンダーイヤーズを収録)
2002年には「あなたのとりこ」が1980年代終盤のリバイバルを遥かに凌ぐ勢いで大ヒット。
1999 TOKYO :
通常はパリ公演後に日本公演をするが、1999年は秋のパリ・オランピア劇場公演 (TOUR DE SIECLE) を目前に来日。不意の衝撃的なライヴハウス初出演をする: 東京六本木/STB139スイートベイジル (6月1日から6日まで、毎夜2回公演! 全12公演)。
予想外のライヴハウスでの公演だが、実に自由闊達でスケールの大きなプロフェッショナル・エンターテイナー、シルヴィ・ヴァルタンの人柄も浮き彫りにした貴重な出来事。
シルヴィは観客とのコミュニケーションを楽しむ。「男の子のように」の口笛を吹くパートで、ステージに観客を招いて共演。
更には、何と、シルヴィが 「あなたのとりこ」の歌(発音)の手ほどきをする場面があり、皆で IRRESISTIBLEMENT を大合唱。唯一無二の体験、何て贅沢な瞬間。正に、あなたのとりこ、IRRESISTIBLEMENT SYLVIE !
I - RRE - SIS - TI - BLE - MENT !!
画像左: シルヴィ・ヴァルタン、格好良い薄手の革ロング・コート姿 (パリ、1998年又は1999年)
1998年フランスTV(シルヴィ特別番組 * IRRESISTIBLEMENT SYLVIE)で、同じ比較的丈の長いロング・コートとサングラス姿でダイナミックなロック(MA VERITE : 1998年アルバム収録曲)を披露。 ( * 高視聴率を獲得しCDがリリースされた)
シルヴィは新しいボーイッシュなショートヘアー ( * ) 。 マリンルック (スパンコール/ジャンポール・ゴルチエ) が非常に似合った。シルヴィ・ヴァルタンの(20歳の頃を彷彿させる)可愛い表情を間近で目の当たりにした1999年特別公演。 ( * 画像左と同じ、近年のシルヴィには珍しいストレート・ヘアーが素敵だった)
IRRESISTIBLEMENT - SYLVIE VARTAN L'ANTHOLOGIE
04.1999 RCA:3CD/74 SONGS - RCA YEARS 1961/1986
画像左:シルヴィ・ヴァルタン (2008年パリ、衣装DIOR)- 2008年4月号クロワッサン・プレミアム(月刊誌)の表紙。写真嫌いと言うシルヴィの貴重な輝く微笑み。友人のヴァレリアンヌ・ジスカールデスタンが隣にいる安堵感と嬉しさと見える。
2008年2月初旬のパリ公演後にクロワッサン・プレミアムの取材に応じている。その中のシルヴィらしい言葉がある:
「私は誰かに好かれようと選択したことなど、ひとつもない」。
2005年と2008年公演-観客の大熱狂:
ダイナミックなライヴ。愉快なシルヴィの力強い日本語「また逢いましょうー!」も強烈な印象を残す。2008年の一際衝撃的な閉幕場面 - 女性の観客達が会場の全ての長い通路を一気に埋めて、その公演が最後でもあるかのようにステージのシルヴィへ思いのたけ手を振っていた - それはまさにWAVE、大波のような光景。時を超えて愛されるスターの存在。約半世紀もの間、国内外で何倍もの拍手喝采を浴びてきたシルヴィには特別な事ではなかったのかもしれないが。
2013-2014 TOKYO/OSAKA :
画像左: シルヴィ・ヴァルタン 2013年2月ビルボード・ライヴ東京(初出演)
意外な会場、ライブハウスでの公演。ビルボード・ライヴ東京は、奥行きのないステージが近距離過ぎて、そのライヴが夢か現か一層わからないほど。シルヴィは観客との交流を楽しむ人だが、演奏会場は、存在感の強いシルヴィ・ヴァルタンには、狭すぎる感があった。
結局、シルヴィは従来のコンサートホールで自由奔放なパフォーマンスを(2時間以上)存分に見たい聴きたい、そういうアーティストだと痛感した。その上、気もそぞろに又は呑気に飲食して一瞬のステージに沸き突如終演をむかえるその状況には、言い知れぬ違和感や割り切れなさを覚えた。駅のホームから列車が不意に走り去るような悲しさや遣りきれなさ。
2013年のビルボード・ライヴ初出演を知った時、私は驚きと不満を感じる一方でシルヴィを心配した。ところが初日、シルヴィが登場してオープニングが始まった瞬間に目を丸くした: 「何と、シルヴィは元気だ。声も全て変わりなく素晴らしいではないか!」。特に印象深い熱の入った歌声、 ET MAINTENANT (ジルベール・ベコーのカバー)。あなたのとりこ (IRRESISTIBLEMENT) の際にはお得意のステップターンをして足が機材に触れて驚いた。
私にとってシルヴィ・ヴァルタンは、アーティストの本領を満喫したいと思う別次元のプロフェッショナル。 ダイナミックなダンサーぶりを発揮しようがしまいが、優美で活力に溢れる多才なシルヴィ。彼女のショウを長年見てきたファンなら思いは同じではないだろうか。
画像左: 2014年5月9日(金曜日)産経新聞、文化欄 - シルヴィ・ヴァルタンの新作紹介
「シルヴィ・イン・ナッシュヴィル」(2014年4月来日記念)- 「SYLVIE IN NASHVILLE」(2013年アメリカ録音)の日本盤
2018 : 待望の日本公演!
2018年5月末、シルヴィが来日。シルヴィの来日回数は20回を優に超える。大阪公演の前日にNHKの歌番組に生出演。シルヴィ・ヴァルタンは立ち姿そのものの格好良さが際立つ。(司会を務める谷原章介さんが終盤にすかさず、 "ブラーボ!" (BRAVO!) 。印象に残る。)
しかし、パフォーマンスはもとよりヴィジュアルの点でも、TV出演と公演はそれぞれ別物。また、半永久的に一時期のある一曲のみに執着するのはアルバム作品やライヴ盤から曲を抜粋して聴くようなもの。一枚の作品や実際の公演を鑑賞する時、まるで風景を見渡すような充実感や感動の他に音楽の楽しさや面白さなど新しい発見がある。一曲一曲にいろいろなシルヴィが現れる。渋谷オーチャードホールの中央前席辺りで自分の思いのたけを拍手に込める。
いつも胸のすくような驚きがある。と言うのも、直に見るシルヴィは、新味があり殊のほか素敵だ。生来の品位やユーモアや可笑しみもシルヴィ独特。歌、楽器の音、目の前の全てが生気・覇気・対比・繊細な美があって眩い。 「愛と同情と」 (※ PAR AMOUR, PAR PITIE/1966) に深く感動した。他方で、シルヴィは一転して目覚ましいリズムで次の 「踊れ、そして歌おう」 (DANSE LA CHANTE LA/1975/1976年アルバム「そよ風のブロンド」収録曲) を歌い出す。 シルヴィ・ヴァルタン本来の比類なき格好良さ。 思わず背筋が伸びる。心を揺さぶる異次元のヴァルタン。ライヴで再発見する曲がよくあるが、本作がそれ。日本公演は優れている気がする。
「最後の日本公演」と広告で謳われていたが、それを感じる瞬間もなかった。つまりは、シルヴィ・ヴァルタンには、毎回、観客を鼓舞する新しさ、清新の美がある。生来、精神や頭の新陳代謝の次元が違うのかもしれない。一歌手と言うよりセンスのある別格のエンターテイナーだ。何物にも代え難い、例え難いその体験そのものの価値の大きさ。観客として得たのは歓喜、新たな力、希望。なぜ「最後」なのか。
そういえば、オーチャードホール公演終了後、外で誰がが愉快そうに笑顔で話した。 シルヴィは言ってましたよね :
「また会いましょうー!」
幾星霜を経て、凡人の数倍の生命力がありそうな異星人のようなシルヴィ・ヴァルタン。凡人の何層倍もの凝縮した人生を生きるシルヴィだって、久遠の命をもつ生物ではない。しかし、今からシルヴィ・ヴァルタンのステージを再び堪能できない人生とは。 クラシック音楽の世界ではシルヴィより3歳年上のピアニスト Martha Argerich が1960年から精彩ある演奏をし2024現在も相変わらず世界中で喝采を浴びている。「最後」の上演や公演は誰が決めるのだろう。
(※ 「愛と同情と」(PAR AMOUR, PAR PITIE/1966年作品)、シルヴィの永遠の一曲。本作はALI SMITH (スコットランドの作家、1962-)の好きな一曲。小説「HOW TO BE BOTH」(2014)の表紙(1963年頃の夏、南仏の町を散歩中の若きシルヴィ(19歳)とフランソワーズ・アルディの写真)について、発売当時と2020年10月に偶然、BBCラジオでアリ・スミスのインタヴューを聞いた。スミスは実際、思春期にフレンチ・ポップスを聴いていたそうで「愛と同情と」がリクエスト曲の一つだった。本の表紙に見る二つの対極するパーソナリティーと(半世紀余り前に)彼女達が発する自由に触れた。
2021 : 芸歴(ステージ活動)60周年!
2021年はシルヴィ・ヴァルタンにとって様々な節目が重なる年となる。キャリア60周年を迎え、10月に第50作目のオリジナル新譜 MERCI POUR LE REGARD を発売。シルヴィの人生を映すテキストが多く、一体感がある作品。制作チームは新しいシンガーソングライター達から成る。本作をテーマに、シルヴィが長い間切望していた劇場リサイタル(歌詞が印象深い作品に光をあてた公演)をエドワール七世劇場で、またサル・プレイエルでアコースティック・ライヴを行う。
新譜発売前日の9月最終号パリ・マッチ誌の表紙を飾り又、エドワール七世劇場公演の翌日にル・モンド紙が見事な記事を配信。パリ・マッチ誌の記事も結びのシルヴィの言葉が感動的だ:
「この職業で活動に終止符を打つのは死だけ。私は、できる限り、何かを生み出せると思う限りステージに立つだろう」。
シルヴィ・ヴァルタンの願望は変わらない。2004年に雑誌のインタヴューで「音楽や輝く光なしで生きられるか」と問われて前述と同じように答えている:
「止める時が来ると思う。とはいえ、私が望む限り(ステージ活動を)続けるだろう」。
シルヴィ・ヴァルタンのブランクのないキャリア60周年は注目に値する。10月から12月に複数のイタリア・ファッション誌が数ページの記事を掲載し、ブルガリアのTV局はパリでのインタヴューを放映し新譜を紹介している。シルヴィは自身の人生や願望に沿って活動し常に独創的だ。今回はミニマル舞台演出のリサイタルだが、それが今後の公演形態とは限らない。2021年から2022年に過去の作品がLP盤で再発売される。
俳優志望だったシルヴィだが、1961年に音楽家でプロデューサーの兄エディ・ヴァルタンのレコード録音に掛かり合い偶然に音楽の世界に入る。母親の猛反対をよそに同年12月にペコーのオランピア劇場公演で初舞台を踏む。
私生活では、1984年6月に再婚した米国のトニー・スコッティとの東京での宿命的出会い(1981年3月の東京音楽祭)から40周年だ。
* BMG FRANCEシルヴィ・ヴァルタン60周年記念企画>
RCA時代(1961/1986)アルバム再発売(カラー・vynil/LP)。2021年5月に「あなたのアイドル」(1965年日本発売/来日記念盤)を含む6作品、9月に日本発売「サバの女王」など9作品、2022年2月に70年代の6作品 ... 鮮やかなプロジェクト。
2022 : EP発売
2022年5月にウクライナ人道支援のためEPアルバム(ODESSA/5曲収録)を緊急発売する。ユニセフを通して売上金全額をウクライナへ寄付。アルバム・タイトルの「オデッサ」は4月パリ録音。シルヴィとここ十数年来一緒に仕事をしている出色のミュージシャンがボランティアで参加。
オープニング:4月録音シルヴィのメッセージ / 曲目: 想い出のマリヅァ (1968年作品/2011年サル・プレイエル公演ライヴ - 演奏は ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団 )
、オデッサ (1998年作品/2022年4月録音)、LE BLEU DE LA MER NOIRE (黒海の青/2021年オリジナル・アルバム収録曲)、初恋の二コラ (1979年カバー作品-ハンガリーの曲/2015年ソフィア録音)、イマジン(ジョン・レノン1971年作品)(シルヴィ・ヴァルタン1990年10月ソフィア初公演ライヴ)。
シルヴィは2022年9月から11月にフランス国内を巡演。ツアー最終公演 (11/27)の終盤の挨拶の中で今後のプロジェクトに言及した:
「私は歌わずにいられない。次の公演は、たぶん2024年。別の発想や願望を持っていると思う。」
2024-2025 : 2024年11月パリ最終公演, 2025年1月追加公演
SYLVIE VARTAN "JE TIRE MA REVERENCE"
2018年「最後の日本公演」と銘打って開催された日本公演から約7年間もの現役を経て、シルヴィがパリ最終公演を発表 : 2024年11月8日から10日パリ・ドーム、2025年1月24日から26日パレ・デ・コングレ追加公演。63年間のコンサート活動を終えステージから立ち去る。
2024年1月25日付けパリジャン紙の写真入りインタヴュー記事の見出しは、 「私は100歳になってロックを歌うつもりはない」。 ステージ活動は完結するが、レコード制作は続く。その中で海外巡演について言及されると、「(2024年に)最後の日本公演をしたい」と話している。日本公演も実現するなら、幕間を入れて少なくとも2時間半の公演を念じる。
最終公演を発表直後、2024年1月29日放送のEurope1 でシルヴィは改めてこんな風に話している: 自分が構想した公演をチームで実現して行くその構築過程をむしろ好み又、常に斬新な公演を望んだ。2021年のミニマルなアコースティック・リサイタルもシルヴィには新しかった。 1961年12月に17歳で初舞台(オランピア劇場)を踏みステージ活動の頂点(1970年から1980年中頃のパリ・ロングランや長期巡演)を経て常に最前線で活動。
パリ最終公演はその60年余りの飽くなき好奇心の総括となり当然此れまでとは意味が違う。芸歴の節目を6シーンで構成するミュージカル・コメディ仕立てで軌跡を辿るものとなる。
若い頃から揺るぎない自分軸を持つシルヴィ。話しすぎず殊に淑やかで穏やかで冷静な情熱家という風。19歳の初渡米で厳格な一流のアメリカ音楽界を垣間見たシルヴィ。本領の公演に対しては何時も高水準を求める気難しさがある。
2024年を迎えて、シルヴィ・ヴァルタンは 「ステージ上で亡くなるつもりはない」 とコメント(2024年2月1日発行フランス雑誌PARIS MATCH)。
2024年10月1日、11月公演を一カ月後に控えてフランス・ラジオ (France Inter)に出演、その時の印象的なシルヴィらしい一言:
「まあまあの平均的な公演は不本意」
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観客が夢見たシルヴィ・ヴァルタンの一つ一つのステージ(コンサート)。その一つ一つはどれも、シルヴィ自身が見ていた夢や理想だった。
シルヴィ・ヴァルタンは、観客の夢。
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画像下: 1965年5月、初来日したシルヴィ・ヴァルタン (20歳)。当時お気に入りのソニア・リキエルのニット姿。
(ジャン・マリ・ペリエ撮影、 2004年/2005年パリ・ガリエラ美術館開催「シルヴィ・ヴァルタンとモード展」カタログ Page 103 掲載写真)