シルヴィ・ヴァルタンの全貌(日本語ページ)- L'ALBUM SYLVIE VARTAN JAPAN    


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SYLVIE VARTAN ULTIMATE CONCERTS JE TIRE MA REVERENCE - NOV 2024: DOME DE PARIS & ADDITIONAL JAN 2025: PALAIS DES CONGRES DE PARIS.


SYLVIE VARTAN
LA VIE D'ARTISTE



シルヴィ・ヴァルタンの全貌


・永遠の一枚  -  シルヴィ・ヴァルタン・イン・パースン1970
1970年9月 パリ公演 ライヴ・アルバム


・シルヴィの魅力 - プロフィール  ・シルヴィ1960s - 輝く原石!

・シルヴィとジョニー - フランス音楽界の伝説  ・シルヴィ - 真摯

・シルヴィとトニー・スコッティ (巡り合い)  ・シルヴィの愛車

・ヴァルタン家の邸宅とその伝統  -  パリ近郊・ロコンヴィル







シルヴィ・ヴァルタン・イン・パースン 1970 (LP LIVE/RCA)
1970年9月パリ・オランピア劇場公演 - 新たな章の幕開け!




Sylvie Vartan A L'Olympia Paris 1970 : A rising star in notable blue jean jacket and skinny bootcut patch-pocket jeans made in USA
sings and dances Let The Sunshine In (final) with a choreographer Jojo Smith and dancers from NYC, where she stayed long in 1970.





SYLVISSIMA

SYLVIE VARTAN 1970 - LEGENDARY FILM DOCUMENT
(broadcasted in Dec. 1970 France)




SYLVISSIMA : シルヴィ・ヴァルタンの1970年(1970年12月フランスTV放映のドキュメンタリー)

シルヴィ・ヴァルタンが1970年8月に26歳を迎える節目の年を記録した伝説的フィルム。
1970年2月の自動車事故遭遇から同年9月の画期的パリ・オランピア劇場公演までの記録。
1968年4月に続く2度目の被害による計り知れない心身の傷と苦悩を代償に、大きな飛躍の契機を得たシルヴィ・ヴァルタン。
ニューヨーク滞在は、災難を体験後の療養とはいえ、願っても無い 「何かを学ぶ自由な時間」 を与えた。
名ダンサーのスクール通いを端緒として、初めて自ら新しいステージを構想できたとシルヴィは言う。

(事故の負傷は当時の報道の誇張により今も往々にして歪曲した極端な表現を目にするが、本人が言う通り、顔・顔立ちは不変。)

一年の大半を過ごしたニューヨークとパリでのリハーサル風景やイヴ・サンローランとの衣装合わせ、
公演終了後の楽屋裏での珍しい感情吐露(幕引きへの不満と見えるが、ブーツを脱ぎ捨て顔を両手で覆って泣く姿)など、
躍進する若きクリエーター、アーティスト、シルヴィ・ヴァルタンの素顔を収録。

終盤、Let the Sunshine In をブルージーン・ジャケットとジーンズ姿で顔を上げて全身で激しく歌う。
その独特のハスキー・ヴォイスと力強い清新のパワーが強烈な印象を残す。
シルヴィ・ヴァルタンのステージへの情熱と力、予期せぬ困難と人知れぬ悩みを生き抜く不屈の精神...
上昇するスターの重要な過渡期を収めた美しい映像。

2011年に、40年間も机の奥底で劣化していた本フィルムが発見され、フランス国立視聴覚研究所の復元作業を経て
同年シルヴィ・ヴァルタンのステージ・キャリア50周年を記念して再放送に至った。

(本ドキュメンタリーからの抜粋かどうか、日本では1975年頃にNHKが公演模様をTV放映している。)




Sylvie Vartan, show poster of Sylvie Vartan Olympia Paris 1970 (by Jean-Marie Perier)


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シルヴィ・ヴァルタンの魅力 - プロフィール


photo above (from Sylvissima.com, France) : Sylvie Vartan at Paris Folies Bergere, Feb. 2014.


一流アーティストの公演に行き、良い音楽とコントラストがある美しいパフォーマンスを眼前にした時の感動は計り知れない。それはシルヴィ・ヴァルタンの公演だが、私にとり人生でそうない心湧き立つ一大体験だ。人間としての魅力も大きいので尚更。
その意味で、1990年代からのシルヴィはさらに感銘深い。1992年の日本公演はシルヴィ・ヴァルタンの眩さに加えて人格を目の当たりにした出来事。その一つ一つの本物と本物のスターから感じた尊敬の念や歓びや力は、私の脳裏の中でしか再生出来ない人生の財産。

シルヴィ・ヴァルタンを一言で表すと:格好良い(優美)。自由闊達で清新で繊細な美しい人。その資質と同様に、小手先の表現やテクニックとは無縁。生で聞くシルヴィ特有の低音のハスキーヴォイスは、ワイルドな質の良いブルー・ジーンズのザラザラ感とベルガモットの白い花の香を思わせる。公演会場で聞くその輝くような第一声は、毎回、全てを忘れる夢の瞬間。ライヴ盤( * ) でもシルヴィの話す声(特に、臆することなく発音する日本語)や笑い声を聴くのが大好きだ。
( * 1971年、1973年日本公演録音盤、全てのフランス公演ALUBM LIVE。1971年の溌剌とした丁寧な日本語: 「どうも ありがとう ございまスた !!」)



その声は、容姿端麗で異彩あるエンターテイナーでスケールの大きな人、シルヴィ・ヴァルタンの魅力そのもの。独特のユーモアと可笑しみも。一種の矛盾がある面白さを映す。
生来の品位ある物腰、仕草、佇まいが目を引く綺麗なスターにしてはナルシストから遥かに遠い感じ。純粋で通り一遍ではない優しさがある。向こう見ずで大胆不敵にも見えるその一方で、人の状態や心を察するようなその眼差しに人生の機微を知るヒューマンな面を感じて心を打たれる瞬間がある。
シルヴィは人気沸騰の20歳から家族生活を送っている点でも稀なスター。1970年初頭に日本RCAが発売したヒット集アルバム「あなたのとりこ/悲しみの兵士」にシルヴィ・ヴァルタンを象徴するような言葉が紹介されている:

「私は仕事の面でも一流のアーティストになりたいし、それと同じように1人の女性としても豊かな人生を送りたい」

当時、DECCAの音楽ディレクターだった音楽家の兄エディ・ヴァルタン(7歳年上)の仕事に巻き込まれて17歳(高校生)でレコード・デビュー。シルヴィの歌には技巧的なものがなく、一目で目を見張る新鮮さや強烈な個性や推進力やパンチなど非凡なところがある。その後シルヴィは、幅広い歌や踊りのレパートリーを持ったダイナミックで麗しいライヴ・パフォーマーとして躍進を遂げる。
シルヴィ・ヴァルタンの公演は美しい強弱があって飽きない。魔術的で一気に夢見させる、情愛やユーモアに溢れていて胸を打つ、容姿とかけ離れたハスキーヴォイスでラフで大胆でエネルギッシュなロックを歌って圧倒させる。 型破りで一筋縄では行かないスターだが、大きな特徴は、悲しげな歌でも聴いて暗鬱な気分に陥ることがないこと。何か狭いものに拘った風がなく、根底に深い優しさやユーモアや自由や希望を感じさせる。

フランスのポピュラー音楽は、フランスのラジオを聴く限り、今も世代や性別を問わず、暗めの曲調や気だるい歌声や物憂げなささやき声が多い。シルヴィ・ヴァルタンは異色だ。淑やかさとパンチを併せ持つ。哀歓を帯びたメロディーのヒット曲もあり又、歌声に一抹のメランコリーが混在するが、総じて陽気で力強く太陽に向かう感じ。一見粗削りで非日常的で、それはシルヴィの大きな魅力。


写真下(撮影:長峰氏) : 1973年9月30日 シルヴィ・ヴァルタン 東京羽田空港に到着 (日本公演: 10月1日-15日)


シルヴィ・ヴァルタンは俳優を志していたが、ポピュラー音楽の黎明期、1961年に17歳で "全くの偶然から" 歌手デビュー。日本では1963年12月に最初のシングル盤「悲しき雨音」(Rythm of the rainのカバー)を発売。フランスでは "ツイストを踊りロックを歌うリセエンヌ" と形容されて脚光を浴びた一方で、19歳を迎える1963年にRCAの本拠地ナッシュヴィルで録音したアルバムの異色の曲、 La plus belle pour aller danser (邦題:アイドルを探せ) が世界的に大ヒット。実際に公演を見たことがないと、ロック歌手シルヴィ・ヴァルタンの華奢な側面ばかりを思い浮かべる人が多い気がする。

とは言え、Youtubeで再生回数の多いその名曲「アイドルを探せ」を歌うシルヴィ(同名映画の一場面)は、見る人を瞬時に異次元に引きこむ。優れた容貌、優美な身ごなし、品位の他に、その視線や歌う様子に特異な真摯さや精神力が見える。自分の内面に耳を澄ませる人であるといった、本物がある。 シルヴィは、19歳の時に憧れの国アメリカで新譜録音をし有名TV番組にも出演。そのアメリカ・ショウ・ビジネス界の印象を自著などで次のように言っている。

「仕事に対する考え方やそのやり方において、高水準を求める気難しさや厳格さやインスピレーションなど、学ぶことが多かった」

1965年5月シルヴィ・ヴァルタン日本初公演について、朝日新聞の批評が目を引く:

" 純白の上着とスラックスで舞台に飛びだし、アクセントの強い身ぶりで踊りながら歌う 「シルビー・バルタン」 の公演 (11日東京、サンケイホール) はすさまじい "アイドル" で、圧倒する。 シルビー・バルタンが歌う - というより、エネルギッシュに立ち回り、全身でリードしながら歌う。 清潔な退廃ムードといった妙な持味があるし、 ロックの洗礼をうけた現代的な "妖精" のような魅力である"


シルヴィは、奇しくもその名曲が示唆する通り "美しい踊り手" だった事は当時の映像の端々から見て取れる。優雅な身ごなし、相反する魅力、多様な可能性を秘めた個性的なスターであること。シルヴィは衣服デザインやオートクチュール衣装に関心が高く又、ショウ・ビジネスの中心地ニューヨークに憧れていた。

結局、1970年2月、25歳の時、世界中のファンを震撼させた2度目の自動車事故遭遇後すぐに、傷痕治療の名医がいるニューヨークに渡る。シルヴィは将来の公演に新たな展開を切り開きたいと考えていた時期でもあり、その年ニューヨークに滞在。名黒人ダンサー、ジョジョ・スミスとの出会いを契機に、ダンスを習得する中、初めて自ら公演を構想できるまでになる。周囲を説得し同年9月の ポップ音楽とダンスを融合させた 画期的なオランピア劇場公演を成就する。
衣装は1968年に続いてイヴ・サンローラン ( Yves Saint Laurent)に依頼。不測の苦難の末に、新しい舞台創造の願望を実現し、才能をより発揮したミュージカルの側面もある総合芸術とも呼べる奥行きのあるステージを繰り広げるようになる。それはシルヴィの幼少からの夢(俳優志望)と音楽とダンスの融合。

1978年東京公演の思い出は、白いシルクの衣装を翻してダイナミックに踊る壮大なダンス・シーン("Dancing Star")。最前列の席で鑑賞したシルヴィ・ヴァルタンの飽くなきエネルギーと力、その完璧な美とエレガンス、上下左右・縦横無尽に大きく全身で踊るどの瞬間も誠に可愛いその表情。私は目の前の全てに目を丸くして釘付け。
シルヴィ・ヴァルタンは生来、若い気質や活力を持っている上に舞台活動で鍛錬されて、今までどの時代も、その実演(ステージ・パフォーマンス)は実年齢の10歳から20歳くらい若い清新の美に満ちている。






シルヴィ・ヴァルタン (33歳) パリ・パレデコングレ公演
1977年10月7日-11月9日:追加公演 1978年3月20日-4月2日



シルヴィ・ヴァルタンは、フランスでオートクチュールをステージ衣装に取り入れた最初の女性シンガーとのこと。2004年10月から2005年2月にかけて パリ市モード博物館、ガリエラ美術館Le Palais Galliera, musee de la Mode de la Ville de Paris は彼女の40年間のキャリアをモードで辿る "シルヴィ・ヴァルタンとモード展"   ("Sylvie Vartan revue de mode")  を開催しそのステージ衣装を一般公開。(後述) 彼女のモードの遍歴はステージ・キャリアの軌跡と言える。

シルヴィは容姿にも恵まれ、デビューの翌年、1962年に18歳でELLE誌の表紙を飾る。1970年代初頭まで長い前髪を深く前に流しているので気づかないが、額が広く面長の端麗な顔立ち。一つだけ現在も不思議に思うのは、フランスTVに出演するシルヴィの顔が毎回違って見える事。 本当に可愛い時や果てしなく美しい時や何か厳しそうな時がある。 目が大きくて彫刻のようなその容貌や化粧の仕方や髪型のせいや繊細な心の反映なのかもしれない。




シルヴィ・ヴァルタンは幅広い音楽レパートリーを持つ歌手で当初からカバー曲も多い。一方で公演限定の曲を含めてオリジナルの佳曲が数多くある。それを生で聴いてみたいと夢見ている本国のファン達でさえ 「シルヴィのカバーはそのオリジナルを超えるものが多い」 とコメントしているのを目にする。当初から欧米の男性アーティストのカバー曲を多く歌っている。それは持ち歌にはない表現が出来るといった理由だ。フランスの雑誌で見た1960年代のシルヴィの逸話を思い出す。シルヴィがブレーンの作曲家へ提案したこと:

「私が女性だということを忘れて曲を書いてほしい」

カバー曲について、シルヴィは1960年代から1970年代に MOTOWN LABEL から多く取り上げている。また、印象深い作品を挙げるなら、1966年フランス語で歌う マーク・ボラン (MARC BOLAN/1947-1977) の「The Rising Sun」(1965)。
1971年5月の来日公演で披露した前年10月に亡くなった ジャニス・ジョプリン (JANIS JOPLIN/1943-1970) の「ミー・アンド・ボビー・ マギー」(1971年1月発売の最終アルバム「パール」収録曲)。
1972年パリ公演では早くも ジャック・ブレル (JACQUES BREL/1929-1978) のクラシック・シャンソン 「行かないで」を熱唱する一方で、 レオン・ラッセル(LEON RUSSELL/1942-2016) の 「A Song For You」(1970) を煌びやかに奔放に歌うフィナーレ 。シルヴィが言うには:プログラムのどの曲も当時の自分の状態に重なるものだった。
1970年代は他に1977年パリ・ロングラン公演の見事な劇的なシーン、 テルマ・ヒューストンの「Don't Leave Me This Way」(1976) (THELMA HOUSTON/1946-)。また、ボブ・シーガー(BOB SEGAR/1945-)、ニール・ダイアモンド (NEIL DIAMOND/1941-)、エルトン・ジョン(ELTON JOHNE/1947-) などをカバー。

ブレルのカバーは、1995年カジノ・ド・パリ公演の 「懐かしき恋人の歌」 はまるで持ち歌のように心に響いた。ピアノにもたれて黒のヴェルベット・ドレスで歌うシルヴィの眩いばかりの美しさと歌声は夢幻的で短編映画のように忘れえぬ場面。2011年サル・プレイエル公演終盤の「愛しかない時」はシルヴィらしからぬ熱唱ぶり。

2007年のカバー・アルバム NOVELLE VAGUEボブ・ディラン (BOB DILAN/1941-)の「風に吹かれて」を収録。翌2008年パリと東京公演で披露。アルバム同様、ノスタルジーを覚えると同時に伸びやな歌声に圧倒された2008ライヴ。

シルヴィ・ヴァルタンに言及する時、その歌が上質でも容姿や舞台内容の視覚的価値を先に挙げがちだ。でも、メランコリーを帯びた歌は、優れたダンサー達と一緒に繰り広げるロック・ポップ同様にいつも心に残るシーン。手持ちのフランスの雑誌で見た70年代から80年代にかけてシルヴィ・ヴァルタンと一緒に踊ったダンサーの印象的な言葉を思い出す : -

"シルヴィと一緒に踊るのは楽しかった。でも私が一番好きな場面、つまりシルヴィのショウの最高の見せ場は、彼女がステージで一人で歌う時だ。"

兄でジャズ・ミュージシャンの エディ・ヴァルタンEDDIE VARTAN)(7歳年上)の影響で、十代の早い時期からジャズを聴き、オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson) やマイルス・デイヴィス(Miles Davis)など一流ミュージシャンのオランピア劇場公演を兄と一緒に鑑賞。最初に見た公演はカウント・ベイシー (Count Basie) と話す。リセ時代はJAZZ, R&B, ROCK を好んで聴いた。その音楽的嗜好は今も同じだが、 「音楽はジャンルに関係なく聴く。良い音楽が好き」と言う。



シルヴィとカルロス(元シルヴィの秘書・付き人)/ 画像右: ローレルとハーディを演じる二人 : 1974年フランスTV ミュージカル・ショウ。多才なシルヴィ。



画像右 : シルヴィ・ヴァルタン パリ・オランピア劇場のリハーサル・スタジオ。(1972年)

俳優志望だったことが影響していると見え、ラテンを含めて様々な音楽の要素があるアルバムを制作し、ミュージカルの側面を持つ公演を行ってきた。 また、クラシック・シャンソンを歌ったからといってそれは「戦略的意図」でも 「路線転換」 でも 「回帰」 でも 「変貌」 でもなく、 シルヴィの歌はいつも直観的な彼女の志向や自分に正直な彼女の人生に沿ったものだった。
シルヴィの新譜発表には、80年代後半 (公演活動を5年ほど休止) を除いて、何時も新しい公演が伴う。1999年オランピア劇場公演 "TOUR DE SIECLE" は、公演テーマから察する通り、第一部をクラシック・シャンソンに捧げた異例のライヴ。ベルエポックのミスタンゲット風の羽飾りで登場したシルヴィのステージは精彩に富み、ユーモアと魂があった。シルヴィのお母さんが聞いていた歌でもある。また、2007年夏に最愛のお母さんを見送った後の2作品と2公演にはその影響が色濃い。2008年パリ公演 "NOUVELLE VAGUE"(60年代がテーマ) からダンサーと踊る事はなく、2009年公演 "SYLVIE LIVE" はアコースティックで静謐な印象が強く、テアトラルなシーンと初めて歌うクラシック・シャンソン "MON ENFANCE" (私の幼い頃) が中核だった。
そして2013年、50年ぶりナッシュヴィル録音カントリー・ロック "SYLVIE IN NASHVILLE" はユーモアを内在するワイルドなシルヴィ・ヴァルタン本来の型にはまらない様々な魅力を再認識する作品。新作1曲ほか、久しぶりに同世代の ボブ・シーガー(BOB SEGAR) の "Against the Wind" など男性アーティストの作品をカバー。
よって、シルヴィ・ヴァルタンのお陰で私の音楽への興味の裾野が広がる。しかし、私も、ライヴで聴いてみたいシルヴィのオリジナル曲は山ほどある。


画像下 : 作曲家・音楽ディレクターで兄のエディ・ヴァルタン(26) とシルヴィ Sylvie (19) (1964年)

シルヴィ・ヴァルタンとは : 

シルヴィは生来、虚心でいて正直な人だと思うことが多い。また、一言で語れない魅力がある。繊細で寛容で頼もしく、我が道を行くお転婆な感じ。予測不能な印象がある一方、多くを語らない人で、彼女の中には感動的なある静けさや穏やかさがある。それはシルヴィ・ヴァルタンの根幹。

シルヴィは音楽についても同様で多面性があり、その魅力を的確な言葉にするのは至難なアーティスト。前述の1965年来日公演の朝日新聞の批評、 「清潔な退廃ムードといった妙な持味があるし、ロックの洗礼をうけた現代的な "よう精(妖精)" のような魅力である。」 は、シルヴィ・ヴァルタンの大まかな特徴を言い当てている。

シルヴィ・ヴァルタンは、長年ショウビジネス界にいながら今もステージを降りれば、 「普通であるスター」 (here's an exemple : Interview of Sylvie Vartan on Radio Classique, France "Sylvie Vartan, une Star ordinaire"  (2013)) 、そして 「地に足のついた」人、と言われる。 シルヴィ・ヴァルタンが毒されずに来れたのは、彼女の生き方のお陰。
例えば、70年代の記事や2015年6月11日付の仏新聞ル・パリジャンのインタヴューでもこう話している。「私は幼い頃からアーティスト(俳優)になりたいと思っていたが、有名であることを気に入ったことがない。仕事には真剣だ。でも自分について大したものだと自惚れてはいない」。
70年代前半にシルヴィはこんなことも言ってる、「家庭なしでは、私は何者でもない」。 シルヴィ・ヴァルタンは、アーティストになる幼少の夢を実現した後も、好きなものや大切なものは変わらない。1998年5月(53歳の時)、ついにブルガリアの幼児を養子に迎えたことも突然の考えではないと言う。或るインタヴューで、70年代初期シルヴィが20代の時の孤児院訪問に触れて、帰り際にシルヴィから離れようとせず顔を青くしていた子供への思いを語っている。




photo below : Sylvie Vartan in 1961 at age 16-17, when still in lycee in Paris, looking into album "Blue Train" of JOHN COLTRANE (American jazz saxophonist and composer/1926-1967). The year when she participated by accident in a recording directed by his brother EDDIE VARTAN (RCA music director, Jazz musician and composer/1937-2001).



写真: シルヴィ・ヴァルタン(1961年)- パリのリセに通学していた16歳から17歳の年。当時デッカ・レーベル(RCAの提携先)の音楽ディレクターでジャズトランぺッター、そして作曲家だった兄のエディ・ヴァルタ(7歳年上/1937-2001)が担当したレコード録音に偶然参加した年。手に持っているレコードはジョン・コルトレーン (アルバム "ブルー・トレイン")。

シルヴィ・ヴァルタンとは : 

70年代中頃までシルヴィ・ヴァルタンの主要ブレーンだった作曲家ジャン・ルナール (Jean Renard) は、シルヴィについて(2011年フランス音楽雑誌や2015年5月のTVインタヴューの中で) このように話している。

「シルヴィは、いったん家に戻るとご両親の子供で普通の女の子だった」 「シルヴィは少し近寄りがたいと(フランス音楽)業界で言われる時がある。でもそれは、(シャイでもある)彼女が我知らず作った 殻(見かけ)のことだ」 「実のところ、シルヴィは静けさや安らぎを求めていて、家にいる彼女はアーティスト・シルヴィ・ヴァルタンとは全く無関係な人。自ら料理をして友人達をもてなす。彼女がパリに居るときは今も私を招いてくれる。」

シルヴィ・ヴァルタンは、2020年の或るインタヴューでも、「私は外出するより家で過ごすのが好きだ」と答えていて、この一種の習慣は若い頃から変わらない。

ジャン・ルナールはシルヴィの代表曲を多く作曲: "Par Amour, Par Pitie/愛と同情と" (1967), "Irresistiblement/あなたのとりこ" (1968), "Les Hommes/悲しみの兵士" (1969), "La Maritza/想い出のマリッヅア" (1972), "Non Je ne Suis plus La meme/愛のかたち" (1973) 他。


photo below right (by Philippe Quaisse) :
Sylvie Vartan 2009 at Olympia Paris (in 2010 album "SOLEIL BLEU" Special Edition gorgeous photobook/page 12 - Sony Music Entertainment France)


シルヴィ・ヴァルタンとは : 

1960年代終盤から1976年までマネージャーを務めたジャン・リュック・アズレ ( Jean-Luc Azoulay)や彼の後任者も前述のジャン・ルナ―ルと似た話をしている。アズレは2016年10月放送のラジオEUROPE1で、シルヴィは冷たいと見られる話しに驚いて、「それは、シルヴィはすぐ笑ったりする人ではないだけ」。 シルヴィ・ヴァルタンは本来シャイで人見知りすることは本人も度々インタヴューで触れている。アズレは、医学部時代にシルヴィの熱狂的ファンになりファンクラブを発足。その後、シルヴィと一緒に仕事をするため大学を中途退学。1970年代はシルヴィの日本公演にも同行。2004年にパリ公演をプロデュースした。

シルヴィ・ヴァルタンはフランス・ショウビジネス界で特異な存在だ。デビュー当時(十代)から一緒に仕事をしてきた写真家ジャン・マリ・ペリエが言う通り。シルヴィの姿勢は当初から変わらない。自分の意志で行動し、業界の狭いサークルに属さない。

シルヴィは感動的だ。シルヴィの奥にある優しさや温かさや独特のユーモアや静けさ、そして寛容や信念など非凡な気質を感じる。言動がピュアで瑞々しいその一方でメランコリーも見える。これまでの様々なTV番組やインタヴューや1995年6月の第3回フランス映画祭(横浜)でのサイン会の時、そして最近(2018年6月)までの日本公演を見て思うのは、シルヴィは魂を揺さぶる本物だということ。シルヴィ・ヴァルタンの魅力は生来の品位。

スター・アーティスト、シルヴィは人気絶頂の20歳で結婚し家族を持ち、30代後半に再婚。50代前半から生後間もない養女を育てるなど公私ともに豊かな人生を送っている人だ。 その上、1990年以来、人道支援の社会活動家でもある。シルヴィは人生の本質を知る。 2017年9月のインタヴュー(ブルターニュ・アクチュエル紙)の中で、「生活の最優先は何か(歌手、女性、妻、母など)」の質問を受けてこう答えている: -

「分けて考えたことは一度もない。その役割一つ一つが第一だ。一つが残り全体の産物で、その逆もまた同様。
一人の女性であることは歌手の中にあり、歌手は女性だ。要は、それは場所や状況の問題。」


2005年3月シルヴィ・ヴァルタン来日公演がTVで放映された際、シルヴィを長く知ると見える中村敬子さん (プロモーター/infini) が述べたこの強い一言が心に響く:

「シルヴィ・ヴァルタンという人は、どんなに人気が出ようと、ぶれる事がない人。」


2024年1月まで一度も引退をほのめかした事がなく、幾星霜を経て第一線にいる規格外のアーティスト、シルヴィ・ヴァルタン。 2021年にステージ・キャリア60周年を迎え50作目となるオリジナル新譜を発表。それから3年を経た2024年1月末に、2024年11月最終公演(パリ・ドーム)を発表。(2025年1月に追加公演: パレ・デ・コングレ)。63年間のステージ活動から身を引く。

「ステージ上で亡くなるつもりはない」(シルヴィ・ヴァルタン - 2024年2月1日発行フランス雑誌PARIS MATCH)


観客が夢見たシルヴィ・ヴァルタンの一つ一つのコンサート。その一つ一つはどれも、高水準を求めるシルヴィ自身が見ていた夢や理想。それを構想し具現化したもの。
シルヴィは観客の思いを察しているようだ。シルヴィ・ヴァルタンは、観客の夢。




Avenue des Champs-Elysee, Paris in Feb. 2024 - Colonne Morris with the advertising poster of
SYLVIE VARTAN - JE TIRE MA REVERENCE - ULTIMATE CONCERT 2024/2025
au Dome de Paris - Palais des Sports - November 2024
Additional performances au Palais des Congres de Paris - January 2025
source: Sylvie Vartan Official Instagram


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* * *



写真左は日本製アルバム「シルヴィ・バルタン・ベスト」、中のライナーを読むと1972年以降の発売と見える。90年代にパリの蚤の市で購入したもの。(ジャケット写真は1965年8月、21歳目前のシルヴィ)

"シルヴィのすべて" と題してシルヴィに関する事が箇条書きで載っている。例えば -

身長: 168cm/ 誕生地: ブルガリアのイスクレッツ(母の里) (* イスクレッツは、お母さんの里ではなく、正しくはソフィアに住んでいた家族の疎開先の隣町。) / 好きな楽器と名曲: トランペットとオルガン、ブランデンブルク協奏曲/  好きな詩人: ボードレールとランボー/  好きな作家と作品: エミール・ゾラ、モーパッサン、サン・テクジュベリ、「星の王子様」/ 暇な時: 読書、映画、家の中の装飾/ 好きな食べ物: マトンの串焼、キャベツ、イセエビ、いちご、冷たい牛乳、チョコレート/  特技: 服装デザイン/  スポーツ: 釣り、スキー、水泳/ etc.


私は90年代初めに、それまで持っていたシルヴィのレコードや切抜きなどを(LP一枚、ポスター二枚、カレンダー、3cm四方の切抜き一枚を除いて)全部失った。それで、コレクターではないが、一度パリの蚤の市で雑誌や日本製レコードをまとめて買った。ところが、そのライナーやフランスのファン・サイトに投稿された昔の日本の雑誌記事を見て驚いたことがある。

例えば、前述の誕生地イスクレッツは 「母親の里」 ではなく、自叙伝によると、戦時中に両親がソフィアから疎開していた町の隣町。 シルヴィは、お母さんの里(故国ハンガリー)ではなく、そのイスクレッツの産院で誕生している。 それは大した事でもないと思うが、次のような物語的な1965年の記事には唖然とした : (シルヴィは)「家が貧しかったので各国を転々と流浪し、10才の時に、両親と兄につれられてパリに住むことになった」、「17才になったある日、バンドマンをしていた兄の紹介であるクラブの舞台で歌うチャンスをつかんだ」、「働ける者はみな外に出て働いた... 」。  フランスのファン達はその日本語は理解出来ないので写真一杯の記事に大喜びしていたが。「各国を転々と流浪」とか「クラブの舞台で歌うチャンスをつかんだ」 等々の粗雑な事実に反する話を、一体何処から得たのか。

1960年代は洋書も少ない上にインターネット時代でもなかった。それにしても 間違った情報に基づいた記述が特に多いと見える。 2002年に「あなたのとりこ」がリバイバルした際に主要新聞でさえ 「60年代後半のバルタンは、ご難続きで、離婚、自殺未遂、そして交通事故で再起不能とまで言われたが、この曲で不死鳥のように返り咲いた」 と書いている。2005年のTV放送も同様。しかし、交通事故(1968年)だけが事実。自殺未遂はシルヴィの夫の話で、離婚は1980年だ。使いまわしが多い芸能記事は正確性を厳格に求められるものではないのか。校閲しないのだ。確実な情報なら公式サイト!
  (因みに、インターネットに没頭する人が多い中、シルヴィの生活はというと: 一分たりともその暇はない。)


below : photo of Sylvie Vartan (20) 1965 I bought at a photo boutique in Shinjuku, Tokyo in early 1990s.


兄で音楽家のエディ・ヴァルタン(Eddie Edmond Vartan/1937-2001)は、大学生(法学部)時代パリのブルー・ノートで演奏したジャズ・トランぺッター。すぐにデッカ・レーベル(RCAの提携先)の音楽ディレクター、自身のオーケストラ指者、作曲家として活躍。幼少から俳優志望だったシルヴィは奇遇にも、お母さんが最後まで猛反対する中、リセ時代にレコード・デビュー。 1961年、デュエットのレコード録音に関わっていエディは途中降板した女優の代役に妹シルヴィを巻き込んで窮地を脱出。いつも家で鼻歌を歌っていた妹をリセで待ち伏せて説得。シルヴィはアガサ・クリスティーの推理小説ファンで読書する中で英語を学んだそうだが、一方でコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽・舞踊学校)進学を望んでいた。

シルヴィのお母さんにとっては、自分の娘が衆目にさらされて歌う状況は耐え難い事だった。シルヴィはクラブで歌った事はなく、オランピア劇場が初舞台。お母さんは、その時も涙した。

シルヴィ・ヴァルタンは文化的な家に生まれ育った。本人が自叙伝やインタヴューで言及する 「貧しかった」 といった子供時代の困難な状態は、それは当時の時代背景や圧政に起因したもので、ソフィアからパリへの亡命前後のそれぞれ数年間の状況を指す。 若い頃イタリア留学が夢だったという芸術家肌の果敢なシルヴィのお父さん ジョルジュ・ヴァルタン(George Robert Vartan/1912-1970)はフランス国籍を持ち、当時ソフィアのフランス大使館に勤務していた。またブルガリア政府の要請に応じて銅像を制作した事が VISA 発給を容易にしたという。
1952年(シルヴィが8才の時)亡命前にお父さんがフランス大使館に残した自作の彫刻、レリーフの銅メダルは、1990年シルヴィが特別公演のために初帰国した後に、シルヴィの手元に戻されている。メダルはシルヴィのお母さん イローナ・ヴァルタン(Ilona Vartan/1914-2007) のプロフィールをモデルにしたジャンヌ・ダルク風のレリーフ。

シルヴィの祖父 (Robert Vartan) もフランスに生まれフランス語を話し、シルヴィの幼少時代にはシャルル・トレネ(Charles Trenet)の歌を歌って聞かせた。(シルヴィは1992年日本全国公演の際にこの話をして、その歌を披露。) 彼は庭の薔薇園を愛し、又 カランダッシュ(CARAN d'ACHE/スイスの画材・文房具メーカー)の大きな色鉛筆箱を持って絵を描いていた。祖父母の家で暮らした最初の幼少時代はシルヴィの人生の重要な時期だと言う。

フランスを敬愛する祖父の影響か、シルヴィの父親ジョルジュ・ヴァルタンはソフィアのフランス語学校で学びまたピアノ教育を受けた音楽家でもある。シルヴィは幼少の頃クラシック音楽(チャイコフスキーやショパン等)を耳にした。パリに移住して4、5年後、自宅を購入した際に真っ先に買ったのは食卓ではなくピアノ。妻の誕生日に自作の曲をレコード化して贈るなど、心の糧が先だった。シルヴィ・ヴァルタンが深く敬愛する祖父と両親の逸話。(父親のピアノ曲/小品はフランスTVで放映されている。)

1972年制作された "MON PERE"(モン・ペール) (直訳:私の父) はシルヴィ・ヴァルタンの名曲の一つ。本作は、2007年に見送った最愛の母親への思いや子供時代に繋がる "MON ENFANCE"(私の幼い頃) (バルバラのクラシック・シャンソン) と共に、2015年11月発売の新作アルバム "UNE VIE EN MUSIQUE" (直訳:音楽の生涯 - 自伝的オリジナル曲の再録、ソフィア・パリ・ロサンゼルス録音)に収録。 2021年10月1日フランス発売の新譜 "MERCI POUR LE REGARD" - シルヴィ・ヴァルタのキャリア60周年に相応しい力作 - に、お母さんへのオマージュ "MA TENDRE ENFANCE" 、そしてシルヴィの人生を映す印象的なテキスト作品が収録されている。



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2004年出版、自叙伝 "影と光の間で"
(30万部を超すベストセラー/両親や兄へのオマージュ、また家族の歴史を子供たちへ語り継ぐために執筆したと言う)) :
  "SYLVIE VARTAN ENTRE L'OMBRE ET LA LUMIERE" (XO EDITIONS)

2016年出版、母親の回想 "ママン..."
(波乱の約一世紀を生きた母親へのオマージュ。ハンガリーに生まれ、家族で移住したブルガリアの首都ソフィアで結婚、30代でフランスへ亡命(1952年)、晩年はアメリカでシルヴィと一緒に暮らす。):  "MAMAN..." (XO EDITIONS)


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  シルヴィ・ヴァルタンの軌跡


2025年1月  シルヴィ・ヴァルタン追加公演(パリ・パレ・デ・コングレ)
2024年11月 シルヴィ・ヴァルタン最終公演(パリ・ドーム - パレ・デ・スポール)
2022年5月   EP発売/ODESSA - SYLVIE VARTAN CHANTE POUR UKRAINE(ウクライナ人道支援のため4月にパリで緊急制作。UNICEFを通して売上全額を寄付)
2021年10月-11月   ステージ・キャリア60周年: オリジナル新譜発表(スタジオ録音No.50: MERCI POUR LE REAGARD)、パリ・エドワール7世劇場/サル・プレイエル公演 
2021年5月   シルヴィ・ヴァルタン伝記(公式)初出版
2019年10月  パリ・グランレックス劇場公演(10/23-24)(ジョニー・アリディへのオマージュ公演)
2018年      パリ公演と国内外公演ツアー(日本公演: 5/31 NHK大阪ホール、6/1 東京渋谷Bunkamuraオーチャードホール)
2017年9月  オランピア劇場公演
2017年8月  シルヴィ・ヴァルタン完全作品目録刊行  "SYLVIE VARTAN La plus belle pour aller chanter" (Complete Discography)
2016年     敬愛する母親の回想本 "MAMAN..." 刊行、2015年のコメディ演劇フランス国内巡演(10月から5ヶ月間)
2015年      演劇主演 (パリの劇場にて9月から4ヵ月間上演のコメディ作品)、写真集 "LE STYLE VARTAN" 刊行
2013年10月 新譜「SYLVIE IN NASHVILLE」 発表 - 50年ぶりナッシュヴィル録音アルバム 
2011年11月 サル・プレイエル(パリ)公演 - ステージ・キャリア50周年記念
2004年10月-2005年2月   パリ・ガリエラ美術館 「SYLVIE VARTAN, REVUE DE MODE」、シルヴィ・ヴァルタンのモード遍歴展覧会開催
1998年5月  ブルガリアの幼児を養女に迎える (2015年秋、その女の子は大学へ入学。)
1994年11月 映画主演 - フランス映画 「L'ANGE NOIR」 (直訳:黒衣の天使)
1991年1月   パレ・デ・スポール公演(湾岸戦争勃発の最中、3週間敢行する。)
1990年12月 人道救済非営利団体 「SYLVIE VARTAN POUR LA BULGARIE」 をブルガリア赤十字社の下に設立(毎年パリで定例会を開催)。
1990年10月 ブルガリア初帰国、ソフィア初公演(ライヴ・アルバムが発売される)
1984年6月   トニー・スコッティとロサンゼルスにて再婚 (8月にフランス国内巡演 - 1ヶ月間サマー・ツアー)
1983年9月  パレ・デ・コングレ公演 (11週間ノン・ストップ・ロングラン公演、11月~12月フランス国内巡演)
1981年11月 パレ・デ・スポール公演 (翌年まで約6週間ロングラン公演)
1981年3月  トニー・スコッティ (スコッティ・ブラザーズ・レコード会長) と東京音楽祭の席で出会う(3年後に再婚)。
1975年10月 パレ・デ・コングレ初公演 (1ヶ月ロングラン公演/翌年追加公演)
1970年9月  オランピア劇場公演 (日本では「悲しみの兵士」「あなたのとりこ」が連続で大ヒット。)
1970年2月  2度目の自動車事故に遭う (助手席にて顎など顔を負傷)、 ニュ―ヨークに渡り長期滞在
      (シルヴィが受けた怪我は当時の誇張報道から、日本でも往々にして事実を歪めて「変形」「プラスチック美人」といった言葉で話題になる。
      それは一般的な美容整形ではなく、ニューヨークの傷痕治療の名医から皮膚移植の形成外科手術を受ける。 
            傷跡は少し残るが、シルヴィが言う通り、彼女の顔立ち・顔は生来のままである。)
1968年4月  自動車事故に遭う (無免許運転の車に激突され助手席に同乗していた親友を失う。シルヴィは左腕骨折、6月に再手術。)、12月オランピア劇場公演
1966年8月  長男ダヴィド誕生
1965年4月  ロック歌手ジョニー・アリディと結婚 (翌年シルヴィは離婚を望んだものの、1980年11月まで夫婦。)
1964年4月   シングル盤「アイドルを探せ」(LA PLUS BELLE POUR ALLER DANSER)フランスで大ヒット、1位となる。日本盤が発売され100万枚以上を売り上げた。
1963年12月 日本で最初のシングル盤「悲しき雨音」(EN ECOUTANT LA PLUIE / RYTHM OF THE RAIN) が発売される。
1963年9月  初渡米、ナッシュヴィルRCA本拠地でアルバム第3作 「SYLVIE A NASHVILLE」 録音 (邦題「アイドルを探せ」収録)、ニューヨークでTV出演。
1961年春   高校生の時、デュエットの代役で初レコーディング。10月RCAと契約、12月オランピア劇場初出演
1952年12月 ブルガリアから家族4人で亡命、パリへ移住(当時、父親はソフィアのフランス大使館で広報とし勤務。ビザ入手を容易にした。)
1944年8月15日 ブルガリア、ソフィア近郊の町イスクレッツ(両親の疎開先の隣町) の産院で誕生(父親はブルガリア出身(フランス/ナンシー生まれ)、母親はハンガリー出身)


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シルヴィ・ヴァルタンの可能性 - 煌めく原石!
シルヴィの魅力を解き放つ音楽 : 独特の歌声・優美でダイナミックな踊り・斬新なコンサート




画像上: シルヴィ・ヴァルタン 1963/1964年 (19歳/20歳)。
異彩を放つハスキー・ヴォイスと自由奔放な歌声を持つ上に美しいダンサーでもあるシルヴィは、意志的で独創的で真正的な印象を与える。
また、華奢で優美な身のこなしが際立つ。それを象徴するような対比をなす衣装: ブルーのモスリン・ワンピーと白のパンタロン・スーツ。
(襟元に赤または黒のカメリアのような大きな花のコサージュを付けるのがシルヴィのお気に入りで、それはシルヴィ独特)
女性のパンツ・スタイルは1960年代に広まった新しい装い。1966年にイヴ・サンローランが初めて女性のためのタキシード (LE SMOKING) を発表。
フェミニンでボーイッシュなシルヴィ(長身168cm)は肩にかかる長髪で早速身に着けている。


1964年1月16日から2月4日まで3週間、パリ・オランピア劇場にて、国際的新進スターが共演。
シルヴィ・ヴァルタン(19歳)、ザ・ビートルズ(20歳から23歳)、トリ二・ロペス(26歳)。
ザ・ビートルズは数日後、2月7日に初渡米。彼等のケネディ空港到着は歴史的出来事のようだ。



Oh, she's a diamond. She's truly free! Full of dreams!
Ho oui, just like her handwriting!


photo (from magazine ANTIROUILLE No.2 Jan. 2003)
SYLVIE 1967
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シルヴィ・ヴァルタンとジョニー・アリディ
- フランス・ポピュラー音楽界の伝説




画像上:シルヴィ・ヴァルタンとジョニー・アリディ(2009年9月パリ)- シルヴィ・ヴァルタン・オランピア劇場公演にジョニー・アリディがゲスト出演 (2009年9月18日-20日(4公演)。ロック歌手ジョニー (1943-2017) とシルヴィは其々が人気絶頂期であった15年間 (1965-1980) 夫婦であった。 二人は十代(シルヴィ17歳、ジョニー18歳)で出会い2年後、1963年10月に婚約し1965年4月に結婚。20歳と21歳の若きトップ・スターの挙式と個々の大活躍はフランス・ポピュラー音楽界の伝説。デュエット曲は数少ないが、1973年の「危険な関係」(J'AI UN PROBLEM) は大ヒット曲。
人気者同士の私生活は波乱であったが、成人期(約20年)を一緒に過ごした二人は離婚後も交流を続け、お互いの重要なイヴェントでは顔を合わせるなど家族のような間柄だった。シルヴィの2019年パリ公演はフランス音楽界に生涯に亘って君臨した稀有な歌手で前夫ジョニー・アリディへのオマージュである。同年、カバー・アルバム (AVEC TOI) も発売(画像下)。



photo from Sylvie Vartan French cover album AVEC TOI, released 30/11/2018. Sylvie (18), Johnny (19).



Johnny (19), Sylvie (18) - French magazine SALUT LES COPAINS (1963)



Johnny and Sylvie - French magazine PARIS MATCH no.730/6 April 1963



French photo book released in Nov 2020: Sylvie & Johnny
(par Benoit Cachin/ editions Grund) / Paris Match 27 October 1990 (Paris Match 25ans : Souvenirs - Les Anniversaires de Notre Histoire - Ces evenements qui ont emu ou fait sourire les francais, retrouvez-les.)


photo (June 1993) : French CD single of Sylvie Vartan
- Tes Tendres Annees/LIVE in Paris, June 1993 - for 50th anniversary of Johnny (YouTube)



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シルヴィ・ヴァルタン - 真摯
- インタヴュー(パリ、2017年6月6日)


2017年9月、新刊(シルヴィ・ヴァルタン・ディスコグラフィー)の発売やオランピ劇場公演を控えたシルヴィ・ヴァルタン。 6月にフランスの雑誌社 (Bretagne Actuelle) が行った月並みではない良質な独占インタヴュー。シルヴィの滋味深い言葉が心に響く。
シルヴィは1984年6月に再婚後はパリとロサンゼルスの両方の邸宅に住む。



- いかにして飽くことなく歌い続けているのか。
「画家に同じことを聞きますか? 大事なのは、常に新たに取り組むこと。これまで1200曲以上録音してきて、一つ一つどれも同様の気難しさをもって高水準の出来を求めてきました」「今年9月の公演は2部構成。前半のテーマは私のデビュー時代からロックンロールの到来まで、後半は80年代から現在を取り上げます」
- 選曲について。
「深く考えたりせず、強く惹かれるものを選びます。新曲はどれも私のディスコグラフィの最優先。好みは後で、時の流れと共に定まってくる」
- 生活の最優先は ? 歌手、女性、妻、母... ?
「分けて考えたことは一度もありません。その役割全てが第一です。一つが残り全体の産物で、その逆もまた同様。一人の女性であることは歌手の中にあり、歌手は女性なのです。要は場所や状況次第です。」
- 年齢は重要か。
「それは私たちを明確に示す(定義する)ものです。経験を通してようやく上手くやっていけるのです」
- 高齢化社会となり病気が増加していることについて。
「家族と一緒ではなく一人で生活しているお年寄りの方が病気がちです。両親や祖父母を愛することです。体力的・時間的・経済的に厳しいなど色々な状況は当然あるだろうが、放置だけはしないこと」「1980年代はじめになって、年齢だけで若者を賛美するようになった。生きるとは老いること、老いるとは死にゆくこと、それは皆が直面することなのですが」
- 「一語一語」(2012年刊行のシルヴィ・ヴァルタン自著)で書いている「愛」について。
「子供や両親や好きな人たちへの愛のことです。時が経つにつれて私の両親そして彼らの行いや愛情について考えられるようになりました。笑わずに生きられても愛なしには生きられない。愛する事や愛される事で心の傷や怪我からでさえ回復しやすいのです。」

余談だが、終盤で得た貴重なニュースは: シルヴィ・ヴァルタンは、メレンゲ・レモンパイが好き!




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シルヴィ・ヴァルタンとトニー・スコッティ - 巡り合い



画像: シルヴィ・ヴァルタンとトニー・スコッティ - パリ、1994年 (PARIS MATCH - E.Robert/Cardinale/SYGMA).



画像上: 1994年、結婚10周年を祝うシルヴィ・ヴァルタンとトニー・スコッティ。 シルヴィのドレスはディオール(ジャンフランコ・フェレ)、お祝いのケーキはパリの有名レストラン、ラ・メゾン・ブランシュのシェフ特製。

二人は1981年3月の東京音楽祭(審査員として出席)で運命の出会いをし、1984年6月2日にロサンゼルスで結婚(再婚)。
トニーはアメリカのスコッティ・ブラザース・レコード会社の会長(1939年12月ニュージャージー州生まれ。大学時代はフットボール選手。数年間は俳優・歌手としても活躍するが程なく引退。30代前半、1974年に兄弟で会社を設立して大成功する)。

画像左: 1996年シルヴィのパリ・オランピア劇場公演後の楽屋にて。


画像右: 仏誌ELLE 1994年11月7日号、シルヴィ・ヴァルタン

ジャンフランコ・フェレ(ディオール)は、シルヴィに1991年パリ公演 (及び1992年の日本公演ツアー) の黒のロングドレス、1993年の刺繍入り深紅のベルベット・ドレス、1995年パリ公演の黒のタキシードやベルベット・ドレスそして緻密な装飾の白のミニ・ドレスを作っている。
華やかなデザインにエレガンスと可愛らしさがある。1993年の華麗な深紅のドレス(ビロードとオーガンジー)は、スタジアムの広大なステージで歌い踊るシルヴィに相応しい斬新さがあり、右側から見るとミニに見える。全ての点でシルヴィに最高に似合った一番美しい衣装だと思う。
その衣装は、ロック歌手ジョニー・アリディ(1965/1980までシルヴィの前夫)の50歳の祝賀コンサート "Parc des Princes"(3日間で18万人動員)へゲスト出演した時のドレス。TV生中継やパリ・マッチ誌でクローズアップされフランス中の注目を浴びた衣装。
1990年代前半はシルヴィが一際輝いていた時代。1993年夏のヒット曲の他、ジャン=クロード・ブリソー (Jean-Claude Brisseau) 監督の賛否両論の物議をかもした主演映画 "L'Ange Noir"(黒衣の天使/1994年フランス公開)(邦題:甘い媚薬/1995年日本公開)の撮影と公開の時期。




シルヴィ・ヴァルタンは、1995年1月末から2月まで2週間に亘るカジノ・ド・パリ劇場初公演の後、6月15日から6月18日まで開催の第3回横浜フランス映画祭1995(Festival du Cinema Francais a Yokohama 1995)にこの主演作を持って団長として来日。

試写会終了後のサイン会には若者含め長蛇の列ができ、シルヴィはファンと一緒に笑いながらその機会を大いに楽しんでいた。

一方、トニー・スコッティは、ホールのずっと離れた端の方の椅子やテーブルを積み上げた辺りにいた。シルヴィを遠くから見守るといった風。優しい眼差しや笑顔が印象的で、その佇まいや忍耐強さに感動した。列に並んでいる間、そのトニーにサインを貰いに行った。私は舞い上がっていたが、一目で、言い表せない気さくさや優しさや器の大きさを感じたのを覚えている。そして、繊細さを兼ね備えた紳士だと思った。シルヴィの自叙伝によると、トニーは学生時代にプロのアメリカン・フットボール選手として活躍。
トニーはイタリア系アメリカ人で背の高い美男子だと知っていたが、それまでは特に興味はなかった。しかし実際に会った瞬間、雑誌に載ったシルヴィのトニー・スコッティ観、 「私にとってトニーは父親、兄、友人、夫、愛する人、全てだ」 の言葉が頭をよぎった。以来、私はシルヴィ・ヴァルタンとトニー・スコッティ二人のファンだ。

シルヴィは、ショウビジネス界にいて将来再婚する事はないだろうと考えていたと言う。ところが、離婚して数か月後にこの巡り合いが待っていた。


Sylvie Vartan 1994 on French TV (singing a hit tune from the album SESSIONS ACOUSTIQUES).

逸話 :  2000年代初頭に放映されたフランス国営TV(F2)の現地L.Aインタヴューで、トニー・スコッティが二人の結婚前の逸話を公開した。 当初の二人の状況は、シルヴィは離婚直後でトニーは離婚前。トニーが、「私には家族(妻や実母など)がいる。再婚する時には全てを失くして無一文だと思う」と話すとシルヴィは、「私が二人分の仕事をするから心配しないで」と答えた。「私は笑ってしまった。女性にそのような事を言われたのは初めてだ」と実に愉快そうに語っている。また、シルヴィの一人息子ダヴィドについて、「彼は最初、打ち解けず下ばかり向いていた。一方、私は子供を持たなかったので、自分の経験を活かして子供を育成することを渇望していた。」
(二人は1981年3月、東京での出会いから3年後にロサンゼルスで挙式し再婚)






写真上: 1995年6月18日パシフィコ横浜: トニー・スコッティ/サイン会のジャン=クロード・ブリソー監督とシルヴィ・ヴァルタン


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left/ Sylvie Vartan with Tony Scotti, during their summer vacation 2009
right/ At the 47th Deauville American Film Festival on 11 September 2021.



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シルヴィ・ヴァルタンの愛車



photo: SYLVIE VARTAN IN CALIFORNIA, SUMMER 2015 (IN HER CONVERTIBLE CADILLAC ELDORADO 1974)
- PARIS MATCH no. 26/08/2015 (Photographer for Paris Match, Sebastien Micke)



2014年、シルヴィはフランス・ラジオ FRANCE BLEU(写真右)で愛車について次のように話している。 シルヴィは車の運転が好き。昔はパリでも運転したが現在はロサンゼルスに居る時だけ。最初の車は、19歳の時のブルーマリンの「オストン・マーティン」 (ASTON MARTIN, IN COLOR MARINE-BLUE)、 そして、 赤い 「アルファ・ロメオ・ジュリエッタ」 (ALFA ROMEO GIULIETTA, IN COLOR RED)。

車と言えば、シルヴィの熱心なファンは1968年と1970年の二度の自動車事故を思い浮かべるはず。どちらも彼女は被害者だった。最初の事故で親友を失い、シルヴィは2度怪我をする大きな事故だっただけに、当時はすぐに運転を楽しむことはなかった。シルヴィは、1970年の負傷に言及されると、その時のメディアの過激な報道内容を正している。シルヴィは怪我で「顔が変容」したのではない。傷を負い、その傷は一部残った。最近発売の自叙伝で記述している

シルヴィの現在の車(複数所有)は、お馴染みの白の 「キャデラック・エルドラド」 (CADILLAC ELDORADO 1974 - 写真上と下/2015年夏、ロサンゼルス) や日常良く乗っている 白い 「リンカン・ナビゲーター」 (LINCON NAVIGATOR - フォード社の大型高級SUV) など。

日本では映像を見る機会がないが、フランスではシルヴィ・ヴァルタンのアメリカ現地インタヴューや新譜のヴィデオ・クリップなどで見ることができる。 因みに、シルヴィは1974年、現在(写真下)と同じようにカリフォルニアで、白のキャデラック・オープンカーを運転している。またフランスでシルヴィが乗っていたモーターバイクは KAWASAKI




シルヴィ・ヴァルタン、キャデラック・オープンカー 1974 を運転(2015年、カリフォルニア)。
"DRIVE MY CAR" (OF THE BEATLES): 2007年アルバム "NOUVELLE VAGUE" (ヌーヴェル・ヴァーグ)
- 60年代の欧米歌手のカバー集 - に収録。2008年パリ・パレ・デ・コングレ公演で披露。
ユーモアのある素敵なヴァルタン!


シルヴィ・ヴァルタンと愛車(バイク)KAWASAKI (1973年、衣装;サンローラン)
シルヴィは当時のラジオ番組でこのバイクを心待ちにしていると話している。
パリ郊外で運転している姿は当時の雑誌で見れる。

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ヴァルタン家の邸宅とその伝統 - パリ郊外ロコンヴィル


画像下(1981年刊行シルヴィ・ヴァルタン自叙伝から):シルヴィのご両親が住む邸宅/1973年/シルヴィ28歳


シルヴィ・ヴァルタンは、ブルガリアで誕生しパリ移住前の最初の7年間をソフィアで暮らす。お父さんは芸術家気質な人でフランス(ナンシー)生まれのブルガリア人、お母さんはハンガリーのブダペスト生まれ (著名な建築家の父と共に子供時代に家族でソフィア移住)。シルヴィは、幼少から祖父母を含む家族や親類や動物に囲まれて賑やかな声が響く中で過ごし又、祖父母や両親を敬って育つ。

シルヴィはいつも同じような生活ぶりで、現在も家族や親類、親友、子供達や動物と一緒の生活を何より愛する。ヴァルタン家のその伝統的な家族の繋がりや集う暮らし方は、シルヴィから自然に子供や孫達に引き継がれていて、その環境で育った彼らも又その生き方を継承していると見える。

シルヴィと何時も一緒だった最愛のお母さんは、2007年に亡くなったが、娘時代から料理もタルト・フランボワーズなどのウィーン風お菓子作りも得意だったそうで、家族はもちろんオープンだったヴァルタン家に集うシルヴィの友人達はその幸せな思い出が多いと言う。実は、お母さんは若い頃、ソフィアにある高級なティールームのあるウィーン菓子の名店で働いていた時、来店したシルヴィのお父さんと出会ったとのこと。

2014年5月2日配信記事によると、シルヴィの両親が1960年代初頭から住んでいたパリ北部のお屋敷(写真左)で働いていた管理人達もその事に触れていた:
  「私達は単なる従業員だったのではなくシルヴィの友人だった。シルヴィのお母様はクリスマスに大勢のため御自分で料理をした、また彼女の特製タルト・フランボワーズは素晴らしかった」



video: "Mon Amie Sylvie" - An iconic documentary of Sylvie Vartan (1970-1972) - Sylvie Vartan with her son David at Loconville.



前述の記事はシルヴィの一人息子でロック歌手、シンガー・ソング・ライターのダヴィド・アリディ/David Hallyday へのインタヴュー(仏紙/2014年)。彼は新譜録音を思い出深いこの邸宅で行ったばかりとの事。「子供の頃、ここで初めてドラム演奏をした。祖父は彫刻をし、伯父(シルヴィの兄、音楽家のエディ・ヴァルタン/Eddie Vartan/1937-2001)は作曲をしていた。またジミー・ヘンドリックスやボブ・ディランの姿も見た。良い思い出が詰まった場所」

子沢山の家庭が理想だったシルヴィは当初から「子供の声がしない生活は考えられない」と言っている。1966年8月誕生した一人息子ダヴィドや友人の子供達を含めて大勢がこの邸宅に集った写真が数多く存在する。シルヴィはブルガリアでの幼少時代から小動物好きで、当初(1960年代初頭)から彼女の記事や映像そしてレコード・ジャケットにまでペットの子犬や猫や複数の犬達が頻繁に登場する。


photo below by Jean-Marie Perier: Sylvie Vartan (age 27) in 1971-1972 on a trip to South America.


イール・ド・フランスの北、ピカルディ地域ワーズ (Oise)、ロコンヴィル村(Loconville)の公園の中に位置し広大な庭と森もあるこのお屋敷は、1963年からシルヴィの両親が住んでいた所。パリから1時間ほどのこの地は、シルヴィには休息の場所だったそうで、ヴァルタン家のフランスでの初期の歴史を語る「第二の故郷」との事。シルヴィは再婚した1984年から主にアメリカに住むため、残念ながら兄エディ・ヴァルタン亡き後にこの邸宅を手放した。

邸宅は19世紀中頃の建物でシルヴィのお父さんが見つけたそうだが、シルヴィによく似た館だと思う。私は城風のこのラフな力感とエレガンスある白い建築物が大好きだ。

人を迎え入れるヴァルタン家には公私ともに大勢の仲間(大人も子供も)が集った。この自然豊かな広大な敷地を見て胸をよぎるメロディーは、シルヴィ・ヴァルタンの1972年の自伝的作品「モン・ペール」(MON PERE)
英語訳はMY FATHER。(何て空っぽに見えるの、父親の気配がない家は...)と呟きのような歌い出しの佳曲。シルヴィのお父さん、果断で芸術家肌だったジョルジュ・ヴァルタン (GEORGES VARTAN, 1912-1970) は無念にも早世だった。(父親は戦争に触れることがなかったが私のヒーローだった、父親の苗字を持つことを誇りに思う...)と敬慕した父親を歌う。



ロコンヴィル村は、1965年4月、シルヴィ・ヴァルタンが人気絶頂の20歳の時に21歳の国民的ロック歌手ジョニー・アリディと挙式した所。二人は1980年11月に(シルヴィの意志で)離婚したが、それは音楽の革命的時代背景もあり、フランスでは歴史的出来事の一つとして記憶されている。
現在は、シルヴィの両親と兄(作曲家)エディ・ヴァルタンが眠る地。ヴァルタン家が暮らし又、シルヴィの公私の関係者も集った邸宅とロコンヴィル村。それは往年のシルヴィ・ヴァルタン・ファンにとっても走馬灯のように当時の写真や映像が蘇る、なおさら感慨深い場所であり心の拠り所。



Courrier picard, France 2014: David Hallyday (left) and his new group Mission Control.




唯一の郷愁、それは子供時代 - シルヴィ・ヴァルタン

画像下: シルヴィ・ヴァルタン、ソフィアでの子供時代(1950年頃)

1981年刊行のシルヴィ・ヴァルタン写真集自叙伝の中の一枚。シルヴィがお気に入りのフランス人形(*)を抱えた自宅でのスナップショット。窓際の隅に無造作に置かれたブロンズ像(頭像)や背景の壁に掛かった額装された小さな絵画が同じように目を引く。彫刻はシルヴィのお父さんジョルジュ・ロベール・ヴァルタンがシルヴィの兄エディ(エドモンド・ヴァルタン)をモデルに制作したもの。(お父さんは芸術の国イタリアへの留学を夢見ていた)
私は1986年に本書を入手した時、この一枚の写真が語る何気ない日常風景の中あるヴァルタン家の文化的な潤いに憧れて見入ったものだ。暮らしに芸術と音楽があった。

シルヴィは、数々のインタビューでノスタルジーについて聞かれると、いつもこのように答えている:「唯一の郷愁、それは子供時代」。シルヴィの原風景は壮大なヴィトシャ山だろうか。 ( Vitosha Mountain : ブルガリアの首都ソフィア郊外にある山塊で国立自然公園)
フランスの或る雑誌(2013年12月)に子供時代(ブルガリア)のクリスマスの記憶が載っている。「クリスマスツリーにカラフルなガラス玉を付けるのが私の役目でそれはハンガリー(お母さんの故国)の習わし。蝋燭とベンガル・ライトも括りつける。ツリーの灯の輝きに家族の愛や温かさを感じた」

* シルヴィのフランス人形、フランセッタの逸話: 1990年10月ソフィア初公演と滞在の模様は年末にフランスの国営TVで放映された。その中で幼なじみと見える女性が笑顔で話している: 「当時シルヴィはフランス人形を持っていた、それは大きな豪華なものだった」。(シルヴィのお父さんはフランスへ移住(亡命)前の数年間、ソフィアのフランス大使館に広報とし勤務した。シルヴィは大使の家族(子供達)と交流がありその思い出もある。)


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L'ALBUM SYLVIE VARTAN